桃山教会

主日の説教四旬節第4主日説教 放蕩息子のたとえ

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年3月27日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書15章1~3,11~32節
  • その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。(ルカ15:15)

私が名古屋の神学校にいた2005年のことですが、名古屋市の東側に広がる大きな森の中で「愛・地球博」が開催されていて、その、「三井・東芝館」で、「グランオデッセイ」という物語が上演されていました。『オデッセイヤ』、これは古代ギリシャの物語で、主人公のオデッセウスがトロイ戦争で勝利を遂げた後、長い年月をかけて、に帰ってゆく物語です。はるかなに帰り着くことを夢見て、旅を続けてゆく。そのテーマが、私たちの人生にも重なっているから、この物語は、時を越えて、今も多くの人に読み継がれています。これをモチーフにしたのが、「愛・地球博」の「グランオデッセイ」でした。西暦2535年、自然環境を破壊してしまって、もう地球に住めなくなった人類は、宇宙の彼方にコロニーを建設して、そこに移住します。それからいく世代も経て、彼らの子孫たちは、自分たちの祖先の、地球という星に帰りたい、そんな強い憧れを抱いて、宇宙船に乗り込みます。そして、困難に満ちた宇宙の旅を続けていきますが、やがて、視界の彼方に、青く煌く宝石のような星が、見えてきます。見たこともないような、その星の美しさに感動しますが、その星こそ、環境が蘇っていた、彼らの、地球でした。大貫妙子さんが歌っていたと、「Voyage」というテーマ曲も、に帰ってゆくという、私たちの人生の旅のBGMのようで印象的でした。  宗教という言葉は、ラテン語で、「再び結ぶ」という語源です。ただ単に「結ぶ」、ではなくて、「再び結ぶ」、「再び出会う」。だから、そのためには、どうしても、「一度別れる」ということが必要になります。地球環境破壊してしまった、というような過ちを犯し、悲しい別れを体験し、長い長い旅をして、再び、もう一度、出会う。そのような物語が、「宗教」という言葉に、もう既に、包み込まれているわけです。人は、別れを繰り返します。人と別れる。物と別れる。場所と別れる。心が別れる。過去と別れる。私と別れる。それから、神様と別れる。キリスト教では、これを「罪」と呼んでいます。私の罪が、キリストを十字架につけて、殺してしまった。この絶望的な別れが、実は、決定的な出会いとつながっている。これが「贖いの神秘」です。  今日の福音の放蕩息子は、のお父さんに別れを告げて、長い長い旅をして、再びお父さんと出会った時に、初めて、本当に、お父さんと出会うことができました。罪を犯して、を飛び出したこと、どうしても必要なことでした。「放蕩息子」とは、りんごをかじって、エデンの楽園に別れを告げた、アダム。つまり、この、私たちのことです。そして今、私たちは、命と、「再び出会う」ための旅を続けています。人は、罪を犯します。でも、「私の罪」というこの別れ、は、あってはならないこと、なんかじゃなくて、「再び出会う」という物語の中の、欠かすことのできない、大切な一場面です。  こうして、旅を続ける私たちは、手を広げて待っている、お父さんのところに、帰ってゆきます。

第一朗読  ヨシュア記(5:9、10-12) その日、主はヨシュアに言われた。「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた。」イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕刻、エリコの平野で過越祭を祝った。過越祭の翌日、その日のうちに彼らは土地の産物を、酵母を入れないパンや炒り麦にして食べた。彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、イスラエルの人々に、もはやマナはなくなった。彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた。


第二朗読  使徒パウロの二コリントの教会への手紙(5:17-21) 皆さん、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。


福音朗読  ルカによる福音(15:1-3、11-32)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

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