桃山教会

主日の説教四旬節第3主日説教 実のならないいちじくの木

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年3月20日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書13章1~9節
  • 木の周りを掘って、肥やしをやってみます。(ルカ13:8)

 どうして人は、スキャンダルが好きなんでしょうか。「人の不幸は蜜の味」「隣の貧乏鴨の味」そんな、ことわざさえあります。よく、「テレビを見ていると嫌なニュースばっかりだ。世の中どうなってるんだ。」そんなことを言われますが、でも、実際には、世の中には、素晴らしい出来事だって山ほどあります。けれども、テレビ局も儲けなきゃいけないので、どうしても視聴率が上がる、刺激的な、スキャンダラスな事件、そっちばかりを取り上げる、そうなってしまいます。  今日の福音でも、当時の人々の持ちきりの話題だった2つの事件が出てきます。1つはガリラヤ人殺害事件。もう一つは、シロアムの塔倒壊事件。いずれも不幸な出来事ですけれども、人々が熱心に、この話題を口にしていた。そこには、どこかに、「自分は事件に巻き込まれていない」、そして、「巻き込まれた人は罪深い人だった」、逆に言えば、「つまり自分は彼らほど罪深くない」、というような、いやらしい安堵感、優越感、そんなものを胸の内に抱きながら、口滑らかにこの事件のことを、あれこれ噂していた。それに対して、イエス様が「あなたがたも悔い改めなければ同じように滅びる」そう諌めているわけですが、私たちも、こういうこと、ありがちです。人の不幸を聞くと、どこかで安心して、ひそやかな優越感に浸たってしまう。これはきっと7つの罪源の1つ「嫉妬」。人が成功していると妬ましい、その裏返しが「人が失敗すると嬉しい」。って、こういう自分の中にある罪の源、それを自覚できている事は、まず、とても大切です。  でも、「自分が罪人である」これは全然、絶望でも、諦めでもありません。なぜなら、私たちは、キリストが、十字架で、ビリビリに破かれて、罪をゆるしてくださった、「罪人だから滅びる」じゃなくて、「罪人だから贖われて救われる」それを信じているからです。実際、「人の不幸は蜜の味」と、ほくそ笑んでいる、そんな私の仮面、ビリビリと破れて、そこに、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く、その本当の私の姿、ちゃんと顔をのぞかせています。だって、スキャンダルの番組とか、結構すぐ嫌になってくる。もう見たくないって、そうなるものです。こういうところにも、神様の贖い、その忍耐強い働き、あると思います。それは、今日のいちじくのたとえ話、全然実を結ばないこの私をかばってくれて、せっせと肥料も与えてくれて、信頼して待ち続けてくれる、そんなイエス様。で、きっと1年待ってもらっても、結局、相変わらず、私は実を結ばないんでしょうが、それでも、イエス様が、またまた「どうかもう1年待ってください」ってかばってくれるのは目に見えているし、もうそこには、人間を滅ぼす気などない「勝つまでじゃんけん」で、「何が何でも人を救う」それしか願っていない、「いつまでだって待ち続けるから」という神様の限りない忍耐、それが見えてくるのが、このたとえ話です。  だから、いつかきっと私たち、この神様の愛に応えて、必ずいちじくの実を結びます。というか、神様の我慢が、いつか、実を結ぶんですね。私たち、切り倒されることは、ありません。

第一朗読  出エジプト記(3:1-8、13-15) そのころ、モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き上る。」モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名 これこそ、世よにわたしの呼び名。」


第二朗読  使徒パウロのコリントの教会への手紙(10:1-6、10-12) 兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。


福音朗読  ルカによる福音(13:1-9) ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

過去の主日説教

ミサのページへ戻る