桃山教会

主日の説教四旬節第2主日説教 イエスの姿が変わる

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年3月13日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書9章28~36節
  • ひどく眠かったが、じっとこらえていた。(ルカ9:32)

今日は、「ご変容」の場面ですが、「イエス様は祈るために山に登られた」そう書かれています。四旬節という貴重な時間を過ごしている私たちにとっても、「祈り」とても大切です。  八木重吉のこんな詩があります。「ゆきなれた路の/なつかしくて 耐えられぬように/わたしの祈りのみちをつくりたい」八木重吉は29歳という若さで亡くなりましたが、この詩は、亡くなる1年半ほど前に書かれたようです。死と隣り合わせ、というこの世のいのちの中で、永遠のいのちへの憧れを抱き、その永遠のいのちへ通じる道、としての「祈り」に、なつかしくて耐えられない思いを抱く。きっと、これは病気であるなしにかかわらず、滅びゆくこの地上のいのちを生きる私たちすべての、深い、思いなのではないでしょうか。私たちには、「あそこに行きたい」「あそこに帰りたい」そんながあります。リジューのテレジアは、この地上の人生を流罪にたとえて、「この流罪が終わる時に天のであなたに会える」そう願っています。今日の第一朗読でパウロも、「私たちの本国は天にあります」そう語っていますが、私たちがこのである天の国に心を向けること、それが「祈り」であり、だから祈る時、天の国と私たちの間に一筋の「祈りの道」がつながります。  今日の「主のご変容」というのは天にある私たちの本国を一瞬垣間見させていただいた、そんな場面かもしれません。イエス様のお姿が真っ白になって光り輝いているのを、目の当たりにしたペトロは、なんか、「もうここに来たかったんだ」「もうなつかしくて耐えられない」そんな感じで「ここに小屋を建てましょうよ。もう日常なんかに戻りたくないですよ。」って、自分でもわけの分からないまま口走ってしまう。それほどの、いつまでもいたい素晴らしい場所。でも、それもはかなく消え去って、またいつもの日常に戻りました。ただ、別れ際に、消えてゆく天国から、声が聞こえます。「これはわたしの子、これに聞け」こうして、まばゆい天国は消えたけれども、でも、いつも通りちゃんとそこにはイエス様がいた。すごく心に残るワンシーンです。まるで、外国で迷子になった時に、故国の人に出会えた、そんな感じの、イエス様は、本当に天と地をつなぐ道のようですし、イエス様がの神であり、の人であるという、難しいキリスト論の理屈が、しっとりと、私を満たしてくれるのを感じます。  ただ、イエス様はいてくれるけれども、私たちはこの日常を生きていくんです。「天国じゃなくても 楽園じゃなくても あなたに会えた幸せ 感じて風になりたい」この歌もなつかしくて耐えられない、ですけど、天の国だけを憧れ求めて祈るべき私たち、なんですが、でも、天の国が垣間見えるほどに、逆に私たちは、この流罪の地、この日常、「何ひとついいことなかった この町で」誠実に、真摯に、愛と忍耐を生きるように、変えられていきます。  だから、この四旬節の間、いつも、天のに憧れて、「祈りの道」をつくりましょう。

第一朗読  創世記(15:5-12、17-18) その日、主はアブラムを外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。主は言われた。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」主は言われた。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。はげ鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで。」


第二朗読  使徒パウロのフィリピの教会への手紙(3:17-4:1) 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。


福音朗読  ルカによる福音(9:28-36) そのとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

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