桃山教会

主日の説教四旬節第1主日説教 荒れ野での誘惑

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年3月6日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書4章1~13節
  • 人はパンだけで生きるものではない。(ルカ4:4)

卒業式の季節です。「仰げば尊し我が師の恩」最近はほとんど歌われないみたいですが、この「師」という言葉、今日、イエス様はこんなことを言っています。「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも十分に修行を積めば、その師のようになれる。」イエス様がまだ30歳の若さにして、「師」として12人の弟子たちを教育してゆく、このドラマも福音書の見どころの一つなんですが。  皆さんは、これまでの人生で「仰げば尊し」って言えるような、よき「師」に出会えたでしょうか。出会ゃなくて、「ただ、いま」、もう、いのちのにいます。スマホがいつもネットに繋がってるように、私たちのいのちは、いつも、このいのちの源につながっています。  仏教の言葉に「一無位の真人」とあります。自分がどんな生き方をしていようが、そんな自分の中に、もうちゃんとの私が生きていますよ。また、「父母未生以前の本来の面目」とあります。自分の両親さえ生まれていない頃に、もう生きていたの私。多分、こういうのは、聖書の言葉だったら、「たとえ全世界を手に入れても、いのちを失えば何の価値があろうか」という場合のいのちであり、あるいはモーセに示された神様の名前でもある「わたしはある」という端的な言葉。この四旬節の間、「わたしはある」ということに、心を向けていきましょう。難しいことではありません。今、こうして「わたしはある」「生きている」。ただそこだけに、留まってみればいいわけです。そうしたら、もうなんにも、心配なんかしなくていい。「わたしはある」「こうして生きている」。ただ、それだけ。そこに「ただいま」できます。私たちは、日頃、どうしても、あれこれ、いろんなことを考えすぎて、ああしよう、こうしよう、自分の欲望、自分の計画、それに埋め尽くされています。でも、何をすべきか。それを頭で考えるよりも、まず、このいのちの源に立ち戻りましょう。この、いのちのの土が、私たちを霊的に育んで、土はひとりでに、実を結ばせます。ひとりでに成長する種のたとえって、ありましたね。イエス様もあれこれする前に、まず、荒れ野で40日間、じっくりと、このいのちに留まりました。その後、宣教活動が花開いていきます。私たちも、四旬節という典礼暦年が与えてくれている恵みの40日間、荒れ野のイエス様に心を合わせて、シンプルに、「今、生きている」「わたしはある」、その事実だけに留まる、そんな時間を意識的に持てたらと思います。  自分の計画通りにいくことが大切なんじゃなくって、むしろ、計画が打ち砕かれた時、そこに「一無位の真人」が現れる。が生まれる前の私が生き始める。パウロの言葉だと、「キリストがわたしを生きる」。これって、すごく、ある意味ではワクワクすることじゃないでしょうか。神様が私をどうするのか、どう使ってくれるのか、全く読めない、そんな楽しみです。そして何より、このいのちのは、私たちの安らぎです。「生きている。今、ここに、わたしはある」これ以上一体何が必要なんだ、という安らぎです。どうぞ皆様よい四旬節をお過ごしください。

第一朗読  申命記(26:4-10) モーセは民に言った。「祭司はあなたの手から初物を入れた籠を受け取って、あなたの神、主の祭壇の前に供える。あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。『わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。』あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏しなさい。」


第二朗読  使徒パウロのローマの教会への手紙(10:8-13) 皆さん、聖書には何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。


福音朗読  ルカによる福音(4:1-13) そのとき、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を〝霊〟によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

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