桃山教会

主日の説教年間第5主日説教 漁師を弟子にする

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年2月6日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書5章1~11節
  • 神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。(ルカ5:1)

桃山御陵前の駅のところでよく街頭演説をされている方がいるんですが、立ち止まって聞く人もなく、みんな、足早に通り過ぎていきます。芸能人とか有名人なら、もっと多くの人が話を聞くんだろう、とか思ってたんですが、実は、少し前に、大手筋に、テリー伊藤の「から揚げの天才」がオープンして、テリーさんご本人がいらして、店の前でお話ししていましたが、その時も、聞いている人、たいしていなくって、まぁみんな忙しいから、そんなもんなんでしょう。  ところが、今日の福音だと、「大勢の群衆が、神の言葉を聞こうとして、イエスのところに押し寄せてきた。」そんなふうに書かれています。大勢の人が、自分の仕事を差し置いてでも押し寄せる。一体どんな言葉なんでしょうか。きっとイエス様の語る言葉は、選挙で投票してもらおうとか、から揚げを売ろうとか、教団の信者数を増やそうとか、そういう類の訴えかけや自己主張ではなくて、ひとえに、「聞く人に、本当の命を与えたい」それだけを願った、まさに「命の言葉」だったと思います。「この言葉で、あなたは生きるから、どうか、届いてほしい。」イエス様の言葉、聖書の言葉って、本当にそういう言葉だろうし、それは、例えば、歌手の方で、名声やお金のためじゃなく、ひたすら「聴く人に、夢や希望や勇気を与えたい」その一心で歌ってる、そういう歌手、たまに見受けられます。そして、実際にその人が、聴く人に命を与えることができているのは、自分を見せつけてるんじゃなくって、むしろ自分に死んでいるから、もっと大きな命が、その人を通してあふれ出している。それが聴く人の心に染み込んでいる。「神ってる」ってそういうことだと思います。  もし、イエス様が桃山御陵前の駅で街頭演説してたら、どうだろう。想像してしまいます。たとえ、大勢の人に向かって話していたとしても、イエス様の言葉は、聖書の言葉は、どの言葉も、垂れ流しのマス・コミュニケーションの言葉ではなくて、この私だけに、特別に、直接、心を込めて語りかけてくれている深い愛の言葉だから、きっと、立ち止まって、一心に、聴き入ってしまう気がします。  これまで、人から言われて、本当に幸せになれた言葉、誰からの、どんな言葉だったでしょうか。また、反対に、誰かに、心からその人の幸せだけを願ってかけた言葉、そんな言葉があったでしょうか。じっくり思い出してみたいものですが、多分、どちらもそう簡単には見つからないはずです。それは、人間の言葉は、どんなに純粋に相手のためだと思い込んでいたとしても、必ず、どこかに、自分可愛さが紛れ込んでいるからです。本当に自分がゼロになって、ひたすら相手のためだけに言葉を語れる、そんなことができるのは、神様だけです。  イエス様が十字架でご自分のすべてを私に与え尽くしてくださったように、神の言葉は、神様がこの私のためにすべてを注ぎ出してくれている「命の言葉」です。だからこそ、神の言葉には本当の力、私を生かす力があります。そのことに信頼して、聖書をひもとき、神の言葉に耳を傾けましょう。

第一朗読  イザヤの預言(6:1-2、3-8) ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいた。3彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたのであなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」


第二朗読  使徒パウロのコリントの教会への手紙(15:1-11) 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。


福音朗読  ルカによる福音(5:1-11) イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

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