桃山教会

主日の説教年間第4主日説教 ナザレでの説教

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年1月30日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書4章21~30節
  • 山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。(ルカ4:29)

今日の福音を読んで、まず感じてしまうのは、みんな、とても「熱い」ということです。イエス様がナザレの街道でお話をしたわけですが、それに対して、人々は、みんな憤慨して、総立ちになって、イエスを街の外に追い出し、崖から突き落とそうとした。って、ものすごい「熱気」というか「血気」盛んです。もう「怒り心頭」で人に襲いかかって、「こんなやつ、生かしちゃおけねぇ!絶対にぶっ殺す!」みたいになるなんて、皆さんは、そんなこと、あるでしょうか。  じゃあ、そこまで、「殺してやる」とまで思わせてしまったイエス様の発言が、一体どんな内容だったのか。と、思いきや、それは、たかだか遠い昔の預言者物語。「エリやもエリシャもイスラエル人じゃなくて異邦人のことを助けたんですよ」みたいな、その程度の昔話、なわけで。どうでしょう。皆さん、宗教の物語のことで、これほど「殺してやる」って思えるほど、熱く、なれるでしょうか。例えば、私もこうやって、いつも随分好き勝手なことを言ってますけれども、「こいつ許せない。殺してやる!宇治川に突き落としてやる!とか、そこまで思うでしょうか。  これは、後の時代のキリスト教の教義が出来上がっていく教義論争の時代、その頃も、信仰箇条の一つの文言をめぐって、それこそ、文字通り、血が流された、そういうことにも通じますが、きっと、そっちの感覚の方が正常なのかなという気さえ、してきますね。多分、本当は宗教って、命がけのもののはずですし、こと宗教の問題となると、みんな、超真剣勝負。人だって殺す。けれども、自分が殺されるのだって恐れたりはしない、みたいな。イエス様の時代も、教義論争の時代も、そんな時代の風が吹きまくっていた。  でも、それに比べて今の私たちは、「もう全然軽佻浮薄だ、宗教なんてただの気休め、アクセサリーに成り下がっている」なんて、そんなことを言い出しても仕方がないと思います。今の時代には、今の時代の風が吹いているはずで、「不易流行」という言葉もありますが、どんなに時代の風潮が変わっても、それでも変わることのない、福音の本質を、その時代の風の中で伝えていくことができる、それでこそ、「カトリック」「普遍的」そう呼ばれるに値します。それに、教会で説教をするたびに、襲われたり、観月橋から突き落とされたり、なんて、たまりませんし。この、「お互いの信仰を尊重するのが大切ですよ」「暴力はいけませんよ」という、今の時代の風潮だって、もちろん、素晴らしいに違いありません。  でも、イエス様の話を聞いて、「生かしちゃおけねぇ!」とまで熱くなりまくっていた今日のナザレの人たちが教えてくれること。それは、「信仰に生きる」というのは、「趣味が一つ増える」とか、そんなことじゃなくて、「生き死にに関わる一大事」「命をかける真剣勝負」。そのことは、私たちも、しっかりと、心に留めておきましょう。

第一朗読  エレミヤの預言(1:4-5、17-19) ヨシヤ王の時代に、 主の言葉がわたしに臨んだ。 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。 母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。」 あなたは腰に帯を締め 立って、彼らに語れ わたしが命じることをすべて。 彼らの前におののくな わたし自身があなたを 彼らの前でおののかせることがないように。 わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて 堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として ユダの王やその高官たち その祭司や国の民に立ち向かわせる。 彼らはあなたに戦いを挑むが勝つことはできない。 わたしがあなたと共にいて、救い出す」と主は言われた。


第二朗読  使徒パウロのコリントの教会への手紙(12:31-13:13) 皆さん、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。


福音朗読  ルカによる福音(4:21-30) そのとき、ナザレの会堂で預言者イザヤの書を読まれたイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

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