桃山教会

主日の説教年間第3主日説教 伝道の始まり

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年1月23日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書1章1~4節、4章14~21節
  • 巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。(ルカ4:20)

私たちは、「今、自分が救われている」そんなふうには到底思えなくて、「救いというのはいつかそのうちやってくるものなんだろう」そんなふうに考えているかもしれません。しかし、イエス様は、「聖書の救いの言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」そう、はっきりと言い切っています。  私たちが、霊的にへ帰ってゆく。これは宗教の大切なテーマだし、今日は、イエス様も、ご自分のナザレにお帰りになっていますが、第一朗読の方も、に帰ってきた、イスラエルの民の様子が描かれていました。辛かったバビロン捕囚から解放されて、夢にまで見たカナンの地に、やっと、帰ってくることができた。みんなで集まって、祭司エズラが朗読する、律法の書に耳を傾けて、「今度こそ、この律法をきちんと守る。もう決して神様から離れない」そんな決意をしている、新しい旅立ちの場面です。その、旅立ちの日に、エズラは、人々にこう言います。「今日は我らの主に捧げられた聖なる日だ。悲しんではならない。」これは、今から2500年も昔の、エズラの言葉なんですが、この「今日」、それは、ただ単に2500年前の「今日」ではなくて、今、ここにいて、こうして、これを聴いている、あなたの「今日」です。  イエス様もおっしゃっています。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」。「救い」は過去にあるのではありません。未来にあるのでもありません。「神が私を救われる」そのたった一つの時間、それが、「今日」という日です。「今日」以外の、どんな時にも、私たちは神様と出会うことはできません。「いつかそのうち救われる」ではなくて、「今日」私たちは救われています。「いつかそのうちに帰り着く」のではなくて、「今日」イエス様がナザレにいるように、イスラエルの民がカナンの地にいるように、「今日」私たちはにいます。  皆さんはどんな「今日」を過ごしていらっしゃるでしょうか。苦しかったり、悲しかったり、不満を抱いたり、物足りなかったり、疲れ果てていたり、そんな「今日」で、自分の今日は満ち足りていない、自分の「今日」を好きになれない、そう思っているかもしれません。しかし、自分が、今満ち足りているとか、今の自分を好きになれるとか、そんなことは、どうでもいいことで、大切なのは、「神様が、今日のこの私を大好きだ」、ということです。イエス様がおっしゃっている「実現した」という言葉、原文のギリシャ語ですと、「満ち溢れた、時が満ちた」そんな意味の言葉です。「今日」の、この私に、神様が満ち溢れています。「いつか自分が幸せになれたら、神様が満ち溢れる」ではなくて、苦しくても、悲しくても、不安でも、疲れていても、何もかも嫌になっていても、今の自分が大嫌いでも、そんな「今日」の私に、神様が満ち溢れています。  神様は、「今日」の、この私のことが、大好きです。

第一朗読  ネヘミヤ記(8:2-4、5-6、8-10)その日、祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立った。エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。次いで、レビ人が神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」


第二朗読  使徒パウロのコリントの教会への手紙(12:12-30)皆さん、体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。


福音朗読  ルカによる福音(1:1-4、4:14-21) わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。さて、イエスは〝霊〟の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

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