桃山教会

年間第15主日説教種まきのたとえ

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2023年7月16日
  • 福音箇所
  • マタイ福音書13章1~23節
  • 耳のある者は聞きなさい。(マタイ13:9)

 「コロナ禍」と呼ばれる3年余りが過ぎて、社会は日常を取り戻してきています。ミサも通常通り行われるようになってきました。そして、今日はA年年間第15主日なんですが、ミサの中止という状況の中で始めた、この説教の音声配信、3年前のA年年間第16主日から行ってきましたので、今回でちょうど3年間の典礼暦年が一巡したことになります。このようなことを考慮して、今回を持ちまして、この音声配信は終了とさせていただきます。  3年間にわたり、皆様にはお聴きいただきまして、まことにありがとうございました。過去3年間の音声配信は引き続きお聴きいただけるよう、ネット上に残しておきますので、折々お聴きいただければ幸いです。  それで、最終回の、今日は、有名な「種まきのたとえ話」ですが、皆さんはこのお話どういう風にお聴きになるでしょうか。二通りの聴き方、あるんじゃないでしょうか。まず一つは、「種がまかれたのに、鳥に食べられてしまった。枯れてしまった。茨に覆い塞がれてしまった。実を結ばなかった。駄目だった。」という聴き方。で、もう一つは、「まかれた種が、100倍、60倍、30倍の実を結んだ。よかった。」という聴き方。この二つです。でも考えてみると、この二つのことは、実は、一つのことの裏表だということも、見えてくるはずです。鳥に食べられたり、枯れてしまったり、イバラに塞がれてしまったり、ということも前提にして、織り込み済みで、この農業をやっているわけで、ちゃんとやっぱり、実は結ばれている。農業は成立しているという全体としての姿があります。  今日、イエス様は、こんなことをおっしゃっています。「彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。」よく、「理解しやすい聖書講座」「わかりやすいキリスト教入門書」そういうタイトルがありますが、なんとイエス様は、そうじゃなくて、「理解させない」「わからせない」そう言い放っています。このたとえ話には、ご丁寧にも後ろに種明かしの部分が付いていて、たとえば、「茨に塞がれるというのはこういう連中のことなんだ。そうなっちゃだめだぞ」みたいな解釈、教訓がなされてるんですが、実は、「その解釈の部分は、後の時代の付け足しで、イエス様が語ったのは、あくまでも純粋にたとえ話の部分だけだ。」というのが定説です。そして、そのたとえ話。イエス様に言わせれば、「理解しちゃ、だめ。わかったら、だめ。だからたとえ話で語ってるんだ」という代物なんです。この言い草って、なんか私にはすごく腑に落ちる、気がします。まがりなりにも、この説教、音声配信を3年間続けてきて、毎週福音の言葉に向き合ってきて、つくづく思っていることは、「イエス様の言葉って、わかりやすいからすごいんじゃなくって、わからなくても、必ずそれが人を変えていく、そこが凄いんだ」って実感しています。だから、今日の、このたとえ話も、まさにそんな「いのちの言葉」として、「私を救ってくれる言葉」として、もう一度、読み返してみたらいかがでしょうか。

第一朗読 イザヤの預言 55:10-11
主は言われる。雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ種蒔く人には種を与え食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす。


第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 8:18-23
皆さん、現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、〝霊〟の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。


福音朗読 マタイによる福音 13:1-23
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

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